戦争

伝えよう聞こう戦争体験

 8月11日に鎌取コミュニティセンターで市民ネットワークみどり主催の「伝えよう聞こう戦争体験」の会がありました。お話の後、すいとんを用意してして下さり、手作りの会の温かさを感じました。すいとんは戦争中よりずっとおいしかったようです。お話は同じ自治会のやまちゃんと今永さん。それぞれ終戦を中2と小5という、まさに我が子くらいの時期に迎えられていました。東京と大分という全く異なる地域での戦争体験はやはり全く違っていました。

 東京の巣鴨に住んでいたやまちゃんは昭和20年の3月10日の東京大空襲の後、4月13日にも空襲を体験されていました。王子に行こうにも板橋に行こうにも、池袋に行こうにも避難民が押し寄せてきていて逃げる場所もない。お父さんが家族に「もう行くところがない。家に戻ろう」とおっしゃて覚悟を決められたといいます。「ここですべてが終わる」という恐怖、悔しさ、悲しさで涙があふれて止まらなかったけれど、奇跡的にご自宅の周り100~200mで火がとまったそうです。その外に広がる一面の焼け野原を見て泣いていらしたお母さんの姿が忘れられないと話しておられました。

 一方の今永さんは、戦争による死体を見たのは一度だけ。近くにあった宇佐の飛行場で、出動し爆弾を落とし損ねて帰還したイッシキリッポウが移動中に自爆し、亡くなった兵士の足だけそこに転がっていたそうです。当時の今永少年は飛行場に格納されている飛行機の名前をすべて覚えていて、飛行士の着ているキルティングの飛行服や耳のついた帽子に憧れ、予科練に入りたいと思ったとか。学校の帰りに偽装布で覆われた格納庫に立ち寄ると、兵隊さんたちが操縦かんにも触らせてくれたそうです。

 今永さんの話で興味深かったのは、戦後の農家の人たちが町から買出しにきた人たちに食料を売ってヤミ金を稼ぎ、札を積み上げて一尺(33.3センチ)になったら、「尺祝い」をしたという話です。そのお金で土間にあった台所を今のキッチンに改修する家も多かった。女性の労働環境の改善に役に立ったようです。

 しかし、いつの時代でも戦争で儲けるヤツっているんだなと改めて思いました。アメリカをはじめどこもかしこも戦争をやりたがるのは、誰かがお金をもうけたいからではないのかと思ってしまいます。「兵器は人を殺すための凶器。なのに国で戦うときにはだれも取り締まらない。おかしいじゃないか」といったのは、30年以上も「橋のない川」を執筆し続けた住井すゑさん。

 「敗戦国日本の憲法の第1条がなぜ天皇に関することなのか」「天皇をはじめとする身分制度を容認していながら、なぜ民主国家、民主憲法なのか」という住井さんは、憲法発布前に知識人として集まりに参加した時、第1条を見て憤り席を蹴って出て行ったといいます。

 「国家という考えがある限り、戦争はやまないだろう」と話す彼女が明治34生まれだというのが信じられません。こうした話は1992年、90歳の時に武道館で行った講演会の中で出てきます。90歳にして頭脳明晰なのは、常に社会に対して闘っているからだと思いました。

 かたや自分は平和な日本で飢えることもなく、死に直面することもなく、生きているということを感謝することもなく、のんべんだらりと生きているような気がして恥ずかしくなりました。

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