歩きながら考える時がある。なぜフェルメールの絵に引きつけられるのだろう?あの陶酔にも似た心地よさは何だろう?何とか言い当てられないものか。頭の中の「デルフトの眺望」やら「牛乳を注ぐ女」を心で観ながらコツコツと言葉を探す。足の方は目的地に到達するけど、心はなかなか着かない。このあてのなさは実は楽しみでもある。
と前置きが長くなったが昨年12月中旬、おゆみ野の仲間達と「フェルメール展」を観に上野を訪れた。長年の探しているあてどころの手がかりも見つかればという思いも携えつつ。
「フェルメール展」とは銘打っているけど、全40作品中彼の作品は8点のみ。のみとはしかし不適当か。何しろ世に知られる彼の作品は35点だけ。その4分の1が出品されたのだから。ただ愛しのフェルメールに到達するまでがこれまた長い。20分待ってようやく入場できたと思いきや、そこから同時代のデルフトの画家の作品を24枚見せられる。それらも平静に観ることなどもちろん望めない。画家名や題名を表記したラベルを何分も鑑賞させられた後ようやく作品前にたどり着き、そこでも聴覚やら触覚のノイズと格闘しつつ類いまれなる集中力と厚かましさの助けをかりて観るという有様。ま、日本の展覧会ではこれが普通なんだ、とあきらめつつも階段上がってフェルメールの光が視野に飛び込んでくるころには、実はかなり疲労しているんです。(ただし今回の疲労には特別な嬉しい理由があったのです。私、ある一枚の絵と衝撃的に出会い今その作品とその画家に夢中です。)
でも同時代デルフトで活躍した画家達、デ・ホーホやファブリティウス、デ・ヴィッテやフォスマールの、それもヨーロッパの常設ではじっくりとは観ないだろう作品をまとめて系統づけつつ観られることは貴重な体験。またこれらの作品群の後でフェルメールと出会うと、それらとの共通点もよくわかるし、何よりもフェルメールの表現の秀麗さを改めて認識することとなった。
そこには際だった光と色があった。色は対象との関係で様々に変化する。同じ波長でも空の青、水面の青、洋服の青、瞳の青、それぞれの現れ方は全く違う。質感を伴う色、とでも言えばいいのか。そのいわば「質感色」もまた光に強弱によってさらに変化する。絵と描く時、その「質感色」一つ一つをパッチのように切り取り観察する作業を強いられる。そういった細部を忠実に描き集めていくのがオランダ絵画の魅力であり伝統でもあるけど、逆に細部を描き過ぎてしまうことによってかえって現実性、自然性から離れていってしまう面もある。15,6世紀の宗教画では、この現実からの乖離はむしろ崇高なる神聖を表すために好都合だったろう。しかし世俗画ではかえって稚拙さ、ミニチュア化として表れてくることがある。デ・ホーホの作品ではその感が否めないものがいくつかあった。チェスの駒か、ドールハウスの中のような奇妙な感覚。お伽の国に来たような。
このミニチュア化を克服するには、画面全体を絡め取っていく文法が必要であり、その一つが遠近法。大きさであれば透視図法。光では空気遠近法。そして透視図法ならどこに視点を固定するのか、空気遠近ならどの光を用いるのかを、場面場面で効果的に用いなくてはならない。フェルメールの作品では視点は低く、床の線を画面の下に止めることで(小津の映画のようかな)観察者に等身大の空間印象を与え、また光源は窓外の外光に限定し、それを画面の奥に反射させ観察者側には闇を配置することで室内全体の空間の厚みや光の効果を表現している。反対に画面前面に主要モチーフを配置したいときには、色の効果を最大限に用いて進出色(赤、オレンジ)を用い、背景に後退色(青)を配置する。この色の効果は『ワイングラスを持つ娘』で端的に表れている。色が鮮やかで本当に目を見張ってしまいました。係の人から早く前に進めと怒られました。
しかし文法はあくまで文法。これを効果的に活用することに加えて、いかにモチーフや筆致を選び抜いていくかという大いなる取捨選択にフェルメールは秀でている。これについては彼の初期の作品にヒントがある。特に『ディアナとニンフ達』の構図や色はルネッサンス期のイタリア、それもラファエロを連想させるような透明感とやわらかさがある。空間処理では整合性に欠ける部分もあるが、イタリア美術の影響をかなり受けていたこと、それが後の画面の統一感に繋がったことを伺わせた。
また光を空間表現や場面表現に効果的に用いることは17世紀以降のバロック芸術の特徴だが、イタリアのバロック絵画が劇的で時には仰々しい表現に走りがちなのに比べて、フェルメールの光の表現は劇場的ではあるけど決して大げさでなく我々の経験値から逸脱しないのは、世俗画というジャンルにも依るだろうが、視点を低く設定しているという画面構成上の効果もあるこということは新しい発見だった。
ということで、モチーフの図像学的解釈やテーマはさておいて表現様式だけについて一部書いたが、最初の「あて」の話に戻そうか。フェルメールの魅力を語るための何か新しい手がかりは?と聞かれると残念ながら特になかった。ただ、ひとつ整理できたことがあり、それは彼の作品が相対する矛盾を抱えているということ。透明だが鈍く輝く光、日常的だが謎めいた視線、自然だけど計算され尽くした表現、落ち着いているけど実はかなり鮮やかな色遣い。それはヨーロッパの北方美術とイタリア美術の最高のかたちでの融合といえるかもしれない。
「奇跡」なんてあまりの常套句で無礼を感じてしまう。17世紀前半期50年。デルフトが歴史のなかで瞬間的に繁栄したまさにその時、フェルメールはそこにいた。そして絵を描いていた。都市が人を創り、人は芸術を生んだ。この循環の宿命と、その流れの飽和からぷっと吐き出された一粒の真珠。それも何という美しい一粒。彼の絵の中に描かれた真珠そのもののよう。その一粒にただただ感謝するばかり。(N.O)
P.S.今夢中になっているものは、次回に。
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