松本清張は怒っているだろう・・ゼロの焦点
25年以上も前に見た「ゼロの焦点」は、今でもその怖さを覚えている。主人公の夫が突き落とされた絶壁とそこからのぞきこんだ荒波のたつ岩だらけの海岸。野村芳太郎監督は白黒の映像で清張の世界をぴったり描き出していた。
ところが、だ!!2週間ほど前にユニモで見た「ゼロの焦点」は許せない。「広末涼子以外の俳優はよかった。その青っちい演技は役柄仕方のないのかも」とかいう映画評を読んで、広末涼子にはまったく期待していなかった。「おくりびと」以来彼女には期待していないのでそれは仕方ないと。
しかし、脚本があまりに稚拙なので、県立中央図書館で清張の原作をあたってみた。やはり、許せないほど改ざんされていた。
犯人は女子大をでたけれど、戦争で両親を失い、弟を養うためにパンパンになり、アメリカ人将校のオンリーになり、流れてある会社社長の秘書になり、社長の妻が亡くなってから社長夫人になった。女性の地位向上を目指して政治活動しているというのが、事件当時の背景だ。
そこにパンパン時代に見たことのある元警官で、保険の営業をしている男が現れる。男は、自分が社長夫人をかつてパンパンとして検挙したことがあることに気づいていない。にも拘わらず、犯人の社長夫人は、猜疑心からその男を殺してしまうところから、どんどん殺人事件が起きていくのである。
改ざんの1つは、犯人の夫である会社社長の扱いである。原作では温厚な紳士だ。妻がもとパンパンであろうともそれを許す度量もある男である。ところが、今度の映画では、成り上がりでアクが強く、従業員を紙くずのように扱う男にされている。必然性がない。
2つめは、原作にはないのに犯人の弟を登場させている。まったく必要のない人物だ。画家で、飲んだくれてて、姉である犯人の肖像画を描いている。その絵が、映画のラストシーンで、銀座の画廊に飾られ、彼女がその後の日本をみつめているというストーリーになっている。人を殺しておいて、女性運動もないだろう。
小説の最後のシーンは、犯人の女が男を突き落とした海岸から小船で沖へ沖へと漕いでいくところである。夫である社長と、夫を殺された主人公が、それを見送っている。社長は「さっきあれに手を振ったんですよ。そうしたら彼女も手を振り返してくれました。そのうちあの小船は荒波で乗り手を失うでしょう」といって小船をいつまでもみつめているのである。彼女の過去を知ってもなお彼女を愛していることを犯人が知っていいれば、こんな殺人事件は起きなかっただろうというのが、人生のアイロニーとして描かれているのだと思う。
新しい映画では、確かに小船は出てくるが、唐突に小舟が映し出され、「1週間後にアメリカのタンカーによって、小船が発見されました」とテロップが流されるだけだ。犯人の夫である社長は拳銃で自殺し、彼女の罪をかぶろうとする。愛しているという証なのかもしれないが、まったくわけがわからない。清張の遺族はこれで怒らないのだろうかと疑問をもった。日本の映画の質はかなり落ちているのではないだろうか?
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