青春を過ごした谷中に行ってみた
その日、お墓参りをするつもりはなかった。仕事で人と会った後、本郷三丁目の駅に着いた時、見上げた空が青かったのと木々の葉が赤や黄色に色づいてるのを見て、急に学生時代に過ごした谷中の下宿の辺りを歩きたくなった。11月末に、メンバーと上野の森にフェルメールをみに行くので、ちょうど下見にもいいと思った。東大の赤い煉瓦の壁に沿って引き返し、赤門から三四郎池を抜けて根津に出た。根津の交差点には、赤札堂というスーパーと吉野屋が昔と同じように立っていた。今でも私は吉野屋が大好きである。牛丼に山のように赤い生姜をかけて食べる。学生時代に鍛えたおかげで、一人でも牛丼屋に入ることができる。だけど、入ると女性はほとんどいない。
根津の交差点はちょうど谷になっている。東大方面から坂を下りてきて、谷中に向かって今度は上る。下町には細い路地が迷路のようになっているので、どの道を通って学校に通ったか思い出せるか不安だった。しかし、頭より体が覚えていた。坂の途中に寺があってその境内に細い脇道があった。どんどん行くと、階段があって、その階段の真ん中に井戸がある。「そうそうここには井戸があった」などと思い出しながら裏道を抜けた。ところが今度は寺の塀ばかりで、さすがに迷ってしまった。塀を伝ってふらふらとある寺の地所に踏み込んだら、そこは見覚えのある墓地だった。足が勝手に動き始めて、どんどん墓を探し始めついにその墓を見つけた。それは私の大家さんだった美しい人の墓だった。
私は谷中の酒屋の酒蔵の2階に22歳から4年くらい下宿した。6畳と3畳の和室に台所と学生にしては豊かな空間だった。おまけに下宿人も私一人で、子どものいなかった大家さんにとっては娘のようなものだった。私は彼女を「東京のお母さん」と呼んでいた。月に1度くらいは、銀座の松坂屋や高島屋に私を連れて行き、洋服を買ってくれた。そのおニューの服を着て、今度は一流のレストランに行くのだ。四谷の最高級レストラン「クラウンルーム」で飲んだ甘い「マドンナ」の味を私は忘れない。当時下宿代が月3万5000円だったが、その何倍もかけてもらっていたと思う。
大家さんは本当に美しかった。劇作家の如月小春さんとよく似ていた。小春さんは、大家さんの姪だった。小春さんのお父さんの伊藤さんは宇宙工学の権威で東大の教授だった。伊藤教授が亡くなって、後を追うように小春さんも亡くなった。大家さんが7年前に亡くなった時、あの世で二人に会えたかなと思ったものだ。上から下まで全部コーディネイトされた洋服でイヤリングや指輪までこだわった大家さんと最後に会ったのは上野の鰻屋だった。やっと生まれた年子の娘二人を連れて会いにいった。あんなにおしゃれだった大家さんはその時は作業服のような灰色の洋服を着ていた。「もう会えないかもしれない」とふっと思った。その通りになった。
谷中時代は私の青春時代だった。大家さんは亡くなっても私の胸の中で生きている。「私も誰かの胸で生き続けられるよう生きていきます」と墓前に花を添えながら大家さんに話かけた。
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